「図説ヨーガ大全」の著者である伊藤武先生主催のバリリトリートに参加してきました。
この夏、早起きをして先生の本を3回読みました。
わたしが勉強してきたのは、ヨガセラピーやリストラティブヨガなど、主に現代社会へのヨガの応用です。そのためヨガの原点についてあらためてしっかり勉強する機会をもちたいと、かねがね思っていました。ただ、それは難解なヨガスートラやマントラを読み解くことではないような気がしていました。
輪廻からの解脱
空港に迎えにきてくださった伊藤先生のサポーターであるマーリニーさんは、ヨガとはつまるところ「輪廻からの解脱」とおっしゃっていました。
インドにはカースト制度があり、人々は輪廻から解脱できないことが苦しみの元だと考えていました。なので、それぞれの立場ごとに苦しみから解放されるための方法を考案しました。
(写真:何年もの間、割門は人々を見つめてきたのでしょうか)
ヨガの解釈はカーストによって異なる
ハタヨガ、ラジャヨガといろいろあるのは、それぞれのカーストにとって抱える苦しみの解釈も異なるからです。
では、私たちはどのヨガを信じたら良いのでしょうか?結局、現代は当時のインドと環境も生き方も違います。バラモン(僧侶)のように、現世で生きていくことは不可能です。つまり、今この世界を生きている私たちは、自分なりのヨガを理解するしかないのです。
初めに言葉ありき
どうしてヨガの解釈は難しいのでしょうか。それは、ヨガが哲学の上に成り立っているからです。その哲学が理解できなければ、ヨガは理解できません。では、哲学はどのようにして生まれたのでしょうか。哲学はその社会に「言葉」が生まれてからつくられたのです。つまり、その文化の言葉がどのようになっているかがわからなければ、哲学は理解できないのです。サンスクリット語、日本語、英語それぞれが生まれた背景は、異なるのです。ヨガの背景にある二元論も、その背景にはサンスクリット語の文法があるのです。たとえば、西洋人は理由を自分の外に求めようとする言葉の上に生きています。なので「無」は理解できても、なかなか「空」という概念を理解することが難しいのです。
アーサナ(ポーズ)とは椅子だった
高齢者向けに私が普及につとめているのは「椅子を使ったヨガ」なのですが、もともとアーサナという言葉は神様をお迎えするための椅子だということを教えていただきました。バリ島では至る所にその実物が残されていました。私の好きなスートラは「スティラーン スーカム アーサナム」(アーサナは安定して快適でなくてはならない)というものですが、確かに椅子が不安定で不快であれば、神様は降りてきてはくれないでしょう。
(写真:上にみえるのがアーサナ(椅子です))
ハタ・ヨーガとはプラーナの操作
からだを動かしてもプラーナ(ヨガにおけるエネルギーの概念)は動きません。プラーナはどうしたら動くのでしょうか。それは自分で意識することなのです。ヨガの理論は、西洋医学の理論とはまったく異なる思想の上に成り立っているのです。それを無理やり西洋医学の文脈にあてはめようとすると「メディカルヨガ」という概念は危険なこじつけになりかねません。だからこそ、ヨガの古典やルーツを勉強することは大切だと痛感しました。
自分を否定するヨガ、肯定するヨガ
現代に残るヨガには大きくわけて二つの考えがあるといわれています。ひとつは「自分(エゴ)があるから苦しみがあるのだ。だから自分を否定する」もうひとつは「自分(エゴ)は宇宙の小さな縮図なのだ。だから自分を大切にしよう。」私は後者の方が好きです。
エゴは悪くない。よどむことが悪いのだ。
エゴは自意識がある限り存在するものです。エゴそのものが悪さをするのではありません。エゴによって何かに固執したり手放せないことが問題なのです。水は絶え間なく流れていれば清らかですが、とまればよどみます。
マサラ(香辛料)こそがインドの力
インドという国の強さは、多様性を認め否定しない懐の深さにあるような気がします。それも最近変わってきているようですが、さておき、いろんなことが起こるインドでは、なんでも「それでいいのだ」になってしまいます。「こうあらねばならぬ」にがんじがらめになっている私たちには、幸せのヒントが隠されているような気がします。
夫婦喧嘩にもある輪廻
ヨガにはサンスカーラという概念があります。これは、断ち切れない自分のくせや無意識な行動パターンのことです。 普段の私たちの生活を振り返ると、いかに私たちが「同じパターン」で争ったり、つまづいたり、意固地になったりしているかがわかります。
水を飲みたいと思わない人に水を与えても
ヨガがどんなに良いものであっても、水を飲みたがっていない人に水を与えても飲めないように、拒否されてしまいます。つまり、同じことを繰り返していることにまず気づけなければ、そこから抜けだすことが必要だということを願うことすらできません。どうして不幸なんだろうと悶々としているだけです。気づくにはどうしたら良いか。それには先入観をもたず、ありのままの状況を観察することです。日記を書いてみると自分の意外な本音や問題の根源が浮き上がってきたりします。
(写真:どこに行ってもバイクを借りてしまう岡部一家です)
現代の文脈でヨガの原点を考えてみる
現代人にも様々な苦しみがあり、多かれ少なかれ苦悩から逃れたいと願わない人はいないでしょう。
世界平和など解決すべき問題は沢山ありますが、壮大な問題よりもっと身近な問題としては、自分や近しい人を大切にできなくなっているとき私たちは悩みを抱えるのではないでしょうか。
私たちの優先順位はつい「仕事→相手→自分」になっています。仕事があるから、相手があるからということを理由に、自分のことをおろそかをするあまりに不満がたまり、結局のところ相手を尊重できず、仕事が克服すべき敵になります。
また、相手の言葉と哲学が理解できないから、相手の立場や気持ちが理解できない、ということもあるでしょう。職場でのトラブルや夫婦喧嘩も、それぞれ立場や想いがありながら、自分の視点からの主張に固執してしまうことから起こっているような気がします。それも仕方のないことだとも思います。
同じことを繰り返す私たち
同じことで喧嘩を繰り返したり、同じことで失敗していてはきりがない、と反省し、行動をあらためていくことが現代でもヨガの学びなのではないかと思います。ヨガはかたちや理屈ではなく、固執し、輪廻にとらわれている自分に気づくための手段として、呼吸をして自分を見つめたり、ポーズをとりながら自分を観察したり、休息をとって頭を冷やしたり、するのではないでしょうか。
文明人がとらわれた悪魔:コントロールできるという幻想
輪廻からの解脱だけでなく、現代に生きる私たちがもうひとつとらわれている妄想があります。それは「コントロールできる」という幻想です。文明人である私たちは今や、自然すらコントロールできるという傲慢な意識をもっています。だからこそ、身近な人のこともコントロールできると錯覚してしまうのでしょう。身近な人ほど実際はコントロールなどできるはずもなく、コントロールしようとすればするほどお互いのエゴは過敏になり、不協和音が生じます。
私たちが天や神様に祈るときに幸せな気持ちになれるのは、神様をコントロールしようとなど思わないからでしょう。すべてを手放して祈るから、救われているという感情を抱けるのでしょう。
バリに残された豊かな自然や星空は、私たちを謙虚な気持ちにしてくれます。
現代を生きる私たちにとってのリストラティブヨガの意義
幸せな気持ちになるには笑うのが一番、という事実は科学的にすら証明されています。しかしわたしがとらえた問題は、笑えなくなっている人がたくさんいる、ということです。
笑えばいいのはわかっていても、悩みや苦しみ、疲れが堂々巡りで、笑うきっかけすらつかめないのです。
そんなときには、堂々と自分を大切にして、自分を休ませていいんだよ、あなたは存在するだけでいいんだよ、というメッセージであれば、耳に届くこともあるのではないかと思うのです。疲れているとき、傷ついているとき、私たちにとって人の声はたとえそれが励ましであっても、時に騒音に聞こえます。「そんなのわかっているよ、ほっといてよ!」と内心思いながらも、ほっとかれるとさみしいのです。
リストラティブヨガは、自分自身では何もポーズという努力をすることなく、ただそこに何もせずに楽な姿勢で存在するだけのヨガです。基本になっているのは「ポーズとは安定して快適である」という哲学です。そして「あなたは何かをしているからでなく、あなたが存在していること自体が価値なんですよ」というメッセージです。ゆっくりこころとからだの疲れをとってくださいと、ヨガの道具を使い、身体を委ねる土台を作り、気分の悪さを生み出している二大原因、呼吸の浅さと姿勢の悪さを改善するのです。
現代の化け物:過労、そして時間のなさ
現代人が幸せになるために必要なのは、無意識のうちに狂気を抱いている自分を正気に戻すためにしっかり休ませることなのではないかと思います。なぜなら、それほどまでに私たちは疲れ、イライラし、ことあるごとに「リラックスしたい」「時間がない」を連発しているからです。一生、リラックスしたいとつぶやきながらリラックスできない生活や考え方から抜け出せないで終わる人がどれほどいることでしょう。これは一種の狂気ではないでしょうか。
その悪のスパイラルから抜け出すためには、時間をとってリラックスの甘美さを思い出すことです。心拍数と血圧が下がる「からだ」だけのリラックスであれば、実は20分あればできるということはあまり知られていません。
(写真:ケチャをみてきました)
ヨガとは悪魔退治
つまるところ、古代のヨガは目に見えない悪魔退治だったのではないかと思います。
私たちの心や身体はたくさんの誘惑(仕事や食べ物、物欲や性欲など)に囲まれ、いともかんたんに正気を失い、いつ悪魔に化けてもおかしくありません。人間というものは元来のろわれやすいのでしょう。私たちが本来の健やかな自分を取り戻すためには、自分には時間が十分にあり身体が楽である、という感覚が必要です。身体が辛く、時間がないときに私たちは自尊心も失います。自尊心を失っているとき、私たちは世界を恨み、人を恨みます。狂気です。正気と狂気の境界線はみえにくいものです。ちゃんと自分を取り戻し、自尊心を回復できれば私たちは宇宙の一部であることを思い出し、自然に感謝し、世の中もろもろお互いさまだというあたりまえのことも思い出せることでしょう。それが成就であり、悟りであり、三昧の境地なのではないかと思います。私たちのストレスのもとになっているといわれる『貪瞋痴(とんじんち)』貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)も、疲れや余裕のなさから来ているのではないでしょうか。
こころに余裕がなくなると人は悪魔になる
何のためにヨガを勧めるかというと「諸々もっと余裕をもてるようになりましょう」ということなのではないかと思います。実際、メディカルヨガとは病気を治すヨガではありません。ヨガをすることなくことによって、自分を見つめ、こころに余裕が生まれ、身体が楽になることで病気とのつきあい方も変わってくる。それこそがヨガが提供してくれる薬なのではないかと思います。逆説的ですが、身体の調子が悪いと、こころにも余裕が出ません。時間に追われていると、余裕が出ません。姿勢が悪いと、余裕が出ません。
時間や仕事に終われ、自分を見つめること、自分のこころの声や相手の言葉や想いに耳を傾けること、自分のための時間をとることができなくなっていることが現代の病かと思います。 その証拠に幸せの国といわれるブータンではヨガが必要とされていませんでした。ブータンの人々がよく食べ、よく動き、人をうらやましがらず、時間に追われない様子をこの目で見てきました。人の心とからだに巣食う悪魔が少ない国なのでしょう。逆に、疲れた疲れた言っている私たちはヨガに励み悪魔退治しなくてはならないということでしょう。
(写真:宿の子供たちが息子を遊びに連れ出してくれました)
正しさではなく優しさが必要な時代
リストラティブヨガでは自分が大きく器になっているかのごとくゆったりと休みます。これは古代ヨガの文脈で言えば「自分=宇宙」という考えにも通づるかと思います。DoではなくBeの価値、それはあなたが存在することを肯定しましょう。どんな正しさよりも、そのことより正しいことはないのです。というメッセージです。効率主義、時短生活、政治的正義よりも現代に欠けているもの、それは寛容さ、余裕、優しさです。
バリ島では素敵な光景を目にしました。女の人だけでなく、男の人も髪に生の花を飾ります。これには本当にこころが癒されました。
蓮の花と「空」:縁に支えられて生きている
世の中もろもろお互いさまだ、という考え方を「空」というのだと、わたしは理解しています。恥ずかしながら、すぐそのことを忘れ「自分ばっかり辛い」と弱音を吐いておりますが・・・
むかし、母が言いました。「いろんな人も辛いことも、みんな蓮の葉っぱと思いなさい。支えてもらっているから花が咲けるのよ。」バリで見た蓮の花もとてもきれいでした。
最後に
バリへの滞在は3日と短いものでしたが、伊藤先生から学んだことは「情報」ではなくこれからの学びへの指針だったように思います。ヨガとはポーズや呼吸の問題ではなく、命への優しさだ、と確信しました。そして優しさこそが真の強さです。その方法に、からだを動かす方法もあれば、休める方法もあれば、瞑想する方法もある、ということだと思います。
そして伊藤先生の主宰するYAJのスタッフの方々にも、家族そろってお世話になりました。リゾート目的のバリツアーでは決して体験できない貴重な経験、そしてお話、食事を本当にありがとうございました。
言い訳になりますが、帰国後、息子がお昼寝中に、バリで学んだことを忘れないようにと書き綴った回想録です。意味不明な表現もあるかと思いますが、ご容赦ください。
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