類似のケース全般についてあらかじめ有効性が保証されていない限り、よりよい治療法、すなわち成功率の高い治療法を用いることはできない。統計の助けがなければ、真に効果のある治療はできない。〜中略〜試験を行わずに済ませようとすれば、医療はいつまでたっても、効果がなかったり、危険だったりする未検証の治療法の寄せ集めにとどまらざるを得ない。
>> ヨガを未検証の危険な治療法の寄せ集めにしないためにはどうしたらいいのでしょうか。そしてそのためにどういう取組みが実際にIAYTの研究の場でなされているかを学んできたいと思います。
興味深いことにプラセボ効果がとくに起こりやすいのは、痛み、晴れ、熱、昏睡、食欲不信といった症状に対してなのだ。おそらくプラセボ効果は、より基礎的なレベルで私たちの体にそなわる急性期反応(怪我をしたときに起こる緊急防御反応)を、「この治療をすれば回復できる」と期待することで押さえ込むために、生まれながらにして持つ能力なのだろう。
>> ヨガの効能も大半がプラセボ効果なのか。おっくうだった体を動かすと気分が良くなる、などの心理的好転作用もプラセボ効果と呼ぶのでしょうか。ヨガは確かに症状そのものの治療はできないかもしれません。しかし、医療とは「治療」だけではなく「病気を抱えて生きる態度を前向きにさせるという意味での「癒し」あるいは「予防」も指すのではないでしょうか。ヨガは病気の治癒はできませんが、適度な運動習慣を身につけさせることで健康増進には役立つと考えます。
(科学的方法と臨床試験の大切さを説いた)コクランは「瀕死の状態で泣き叫んでいた」兵士を治療するという絶望的な立場に立たされた。彼にできたのはアスピリンを与えることぐらいだった。彼はこう回想している。「とうとう私はたまらなくなってベッドに腰を下ろすと、両腕でその男を抱きしめた。そのとたん、叫び声がぴたりと病んだ。それから数時間ほどして、彼は私の腕の中で静かに息を引き取った。彼が泣き叫んでいたのは胸膜炎のせいではなく、孤独の性だったのだ。私はこのとき、死にゆく人の看護について、かけがえのない勉強をさせてもらった。
>> シニアヨガの指導者養成でもいつもお伝えしていますが、高齢者を老化させるのは筋肉や内臓などの機能低下だけではありません。孤独が高齢者の心身の機能を低下させるのです。ヨガを始めることで、人生捨てたもんじゃない、と思えるようになれば、きっと薬より高齢者のQOL(Quality of Life ) には貢献できます。
逸話をどれほどたくさん集めても、しっかりした科学的根拠にはならない。科学者がよく言うように、「逸話の複数形はデータではない」のだ。
>> これはヨガに携わる私たちが胸にとどめなくてはいけないことだと思います。ヨガは医療に値する、と声高に叫ぶだけでは、説得力はないのです。Yoga as Medicineのティモシー先生も言っていますが、YogaをCAMとして論じることは、ヨガが科学になりうるか、という問い自体への挑戦なのです。一人一人の人生が抱えるものが異なるように、ヨガは一人一人にとって薬とは比べ物にならないくらい様々な形で作用します。それを、データを取って比べたところで意味をなすのか、という疑問と、多くの人の健康に貢献するため、それなりの信憑性を付与する努力を放棄してはならないという課題の狭間で、IAYTは取り組んでいるのです。私たちも、いくらヨガの素晴らしさを逸話として語り続けても、ヨガは特別な人がやるもの、と思われるだけの繰り返しになってしまうかもしれません。本当はもっと、ヨガによって何かを変えられるきっかけを得られる人、健康を増進できる人がいるかもしれないのに、と思います。
代替医療の治療法が医療として認められ用として苦戦を強いられているが、その理由の一つは、治療法の基礎となる考え方が、今日の解剖学、生理学、病理学を始めとする科学的知識とは相容れないからだ。存在してもいない経絡に鍼を打って耳が聞こえるようになるものだろうか?有効成分を含まない超高度希釈のホメオパシー・レメディを飲んで、花粉症が治るだろうか?脊椎をマニピュレート(操作)して喘息が軽快するだろうか?
>> ヨガが健康に寄与するとすれば、日常深い呼吸を心がけたり、体調を悪化させる筋肉の疲労や骨の配置を予防したり改善したりする長期的な努力をさせることになるからだと思います。ヨガはインドの先人たちが「人間には、長い間生活していると、体が疲れてくるとき、心が疲れてくるとき、こういう傾向があるから、それを予防するような逆刺激の動作を与えればいい。」という分析の上、考案され語り継がれてきたものです。その一つが深い呼吸であり、その一つが私たちの日常生活からみると奇妙に思える体の動かし方〜ポーズだったりするのです。たとえば、人は状況が悪くなると呼吸が浅く、速くなります。たとえば、私たちは疲れてきたり、考え方が悪い方に向かうと猫背になります(猫背になると悲観的になったりします)。ヨガの難しさは、そこに「チャクラ」とか「アパナ」「プラナ」など、実在はしない空想上の概念を持ち込み、科学的には証明できないにもかかわらず、ヨガの概念をひっくるめて科学的に説明しようとしているところだと考えます。理解する方にとっても難しいことですが、身体心理学的側面と、伝承的側面に分けて説明することで、この種の混乱を少しは回避できると思います。
代替医療であるハーブ療法のセラピストは、母なる自然は何が最善かを知っており、植物を全体として使うことこそ理想的な薬のあり方だと今も信じているのに対し、科学者は、自然は出発点にすぎず、よく効く薬を手に入れるためには、植物に含まれる成分のうち、治療に役立つものを知らなければならない(そしてときにはそれを操作しなくてはならない)と考えるのである。
>>私の個人ブログのタイトルも「ちょい不良でもちゃんとヨガ」 と名付けてますが、母なる自然にすべて従い生きるのは現代人として難しさを感じています。もちろん、自然は大いなる母ですが、私たちが実際に生きているこの現実こそが、私たちの舞台であり、辛くても矛盾を感じてもそこで生きていかなくては行けません。その現実から逃げて世捨て人になることは、例えて言えば父に背いて生きることでしょうか。私たちには父も母も大切です。できるだけ自然のものを食べたいと思いますが、やはり急いでいる時はカロリーメイトは便利です。汚染された水は飲みたくありませんが、私たちが清潔な水を飲めるのは、やはり文明の恩恵です。大自然もいいですが、都会に住みながらそれを見に行けるのは飛行機があるからです。今の暮らしに役立っているものは、人間がつくってきたものとはいえ、生き延びるために人間が積み重ねてきた智慧の集大成であり、それを頭ごなしに否定することは今という世に命を授かった私たちが先人たちの命の系譜に感謝の気持ちを忘れていることにならないでしょうか。
患者は代替医療の有効性と安全性の両方を知っておく必要がある。そしておそらく安全性は、有効性よりもいっそう重要な問題だろう。
ヒポクラテスの著作より:「病気については、二つのことを習いとせよ。有益なことをするか、あるいは少なくとも害をなさないこと」
現代医学はヒポクラテスのこの言葉を、危険性と受益性を天秤にかけなければならないという教えと解釈している。なぜなら今日では、ほとんど全ての医療介入に、副作用のリスクがあることが解明しているからだ。したがって、何か治療を始める前に、受益性が危険性より大きくなりそうか、両者の比率はどれくらいか、副作用はどの程度になるかについて、あらかじめ医師と患者が理解を共有しておく必要がある。
>> 私がヨガを学んだヨガフィット(アメリカ:ロサンゼルス)において、指導者養成のカリキュラムで一番大切にしていたのがこの「安全性」でした。ヨガの指導者育成での私の考え方の大きな柱になっています。具体的には、ヨガを安全に行うために留意すべきポイントをしっかり学びます。ヨガは副作用のない安全な薬とよく言われますが、どんな薬でも使い方を間違えば毒になります。ヨガをする人の今日の体の状態、心の状態に無理のない取組みをしなければ楽しむことはできません。セラピーであればなおさら、治療としての効果を期待することは不可能であるばかりか、健康上悪影響を与える場合すらあるのです。ヨガをセラピーとして用いようとする場合、その人にとってAt Risk にあるのは何なのか。同じ人にとっても昨日と今日は違うということ。違っていいこと。もちろんその人と、もう一人の人は違うということ。得られるであろう健康上の効果を上回るリスクがあるようなヨガをしては行けないということを、教える側がきちんと分析できなければならず、それがヨガセラピーの学びだと思っています。たとえば、妊婦さんでは何がリスクなのか。高齢者では何がリスクであり、どんな困難を抱えているのか。精神的ストレスを抱えている人に逆効果になるような、あるいは強すぎるポーズや呼吸法はどんなものなのか。など、そういうことをむしろ現代医学より一人一人の状態にきめ細かく配慮できてこそ、ヨガはセラピーになりうるのであり(たとえそれがグループのクラスであっても)、大部屋に人を集めて先生を真似したポーズをとらせ、それらしい呼吸のテクニックを行い、さあヨガで元気になりましたか、といったとしてもそれは現代医学の真似をした副作用を伴う危険な医療介入と何ら変わりがなくなってしまう〜危険であると思っています。そういうクラスではなく、ということをワークショップで伝えたいと思いながら、高齢者の健康増進や乳がんなどに役立つヨガセラピーの指導者養成を行っています。
アーユルベーダのハーブ薬も重金属に汚染されていることが多い。2003年にボストンの医学研究者たちが地元の店を片端からまわって70種類のアーユルベーダのハーブ薬を購入した。すると、10にひとつは、標準的な安全基準を上回るヒ素や水銀、鉛を含んでいた。また、(アーユルベーダに限らず)期待される効果を出すために通常医療の薬がわざと混入されているあることもある。
>> ヨガはこの点においては、安全です。健康博覧会の会場に行って驚いたのは、「日本の健康とは黒酢と青汁のことなのか!」ということでした。経口による健康ももちろんありますが、人はとるだけでなく、出すことも大切です。循環しているから生きているのです。運動は出すために、役立ちます。美味しく食べるためにも役立ちます。健康を議論するとき、もっと運動の実践(やればいいのはみなわかっているのです。でも、始められない、続かないのです。)ということを考えていきたいものです。どうしても現代人、とることにばかり気がとられがちですが、1とったら、2出すことを考えられるようになれば健康に暮らせるのではと思います。もちろん、このテーマは口に入れるものを選ぶ大切さについても考えさせられます。私事ですが、子供が産まれたのでなおさらそれを感じます。
ハーブ薬の最大の危険性は、効果のある通常医療の薬をやめて、ハーブ薬に切り替えることだろう。もしも効果のないハーブ薬が、効果のある通常医療の薬の代わりに用いられれば、患者の状態はほぼ間違いなく悪化する。
>> 乳がんのリハビリにヨガが使われているのは、ヨガによって辛い化学療法に取り組むやる気が出た、などという側面があります。乳がんに限らず、セラピーとしてのヨガでは(少なくとも私が学ぶヨガセラピーでは)ヨガは従来の医療を否定するものではなく、あくまでその治療との相乗効果を念頭においてとりいれられるべきものだ、という考え方をします。ですので、その方の症状を改善できると思われる治療法を否定せず、むしろ副作用の辛さからそれを拒否する患者さんたちの副作用を緩和し、治療に前向きになれるよう手助けができることを目的とします。私自身、ヨガは「代替医療」よりむしろ「補完医療」として位置づけられる方がしっくりくる気がします。これまでの医療にとって代わるのではなく、相乗効果を期待できるような存在になること。そして、他の医療や他の療法を否定しないこと。自分がNo.1でなくてもいいという謙虚さを持つこと。ヨガによって、他のことに取り組む元気が出れば、他のことを妨げていた苦痛が取り除かれればそれでよしとすること。それこそ、補完であるからこそ、2番手、3番手でもいいのです。ヨガセラピーではヨガ自体を極めることが目的ではなく、その人の毎日を健やかで明るくすることがセラピーの目的であるはずです。主役はヨガではなく、ヨガと出会ったその人のQuality of Life であり、そこにヨガがちょっとお邪魔させてもらうだけでいいと思うのです。もしかしたら、本命になるかもしれません。もしかしたらただの通りすがりや愛のキューピッドで終わってしまうかもしれません。それでもいいんです、と清々しくと思えることが補完医療に参加できる条件なのではないかとと思います。
ヨガなどいくつかの治療法には確かに効果がありそうだが、
>>この本で、ヨガはどう検証されるんだろうとドキドキしていましたが、ヨガに対する見方はまだ完全に否定的というわけではなさそうです。ヨガが現代人の心と身体の健康に寄与できるということをより多くの人々に信じてもらえるように、私は日本人として、勉強して、考えて、伝えられることを伝えていきたいと思います。
インターネットをざっとみただけでも、変わった治療法が実に様々あり、科学的な根拠がないまま大胆なことが言われている。
>> 大胆なことが言われている、に思わず笑ってしまいましたが、その通りだと思います。いつもワークショップでお伝えしているのが「ヨガを過信しないで下さい」ということです。ヨガを通じて学べることがあるとすれば、それは世の中には万能薬は存在しない、ということではないかと思っています。私たちヨガに携わって生きる人間はどうしてもヨガを好きなあまり、ヨガの良さばかりを伝えようとしてしまいます。もちろんジャーナリストではありませんからヨガの良さ悪さを冷静に分析して伝える必要はありませんが、セラピーとしてヨガを処方する責任として、先に出てきた「効果と安全性のバランス」をきちんと整理した上で指導に当たる必要があります。それこそがセラピストとしてのヨガの学びだと思います。大胆なことを無責任に羅列し、生徒さんや患者さんをその気にさせたり煙に巻いてはいけません。(といっても、ヨガの持つ神秘的なイメージにひかれ、それがヨガを続けるきっかけになり、結果的に適度な運動や正しい呼吸の習慣が身につき、健康状態の改善に役立っているケースがあることも否定はできないのですが)
自然なものがよいとは限らず、自然でないから悪いとも言えない。「メディカル・モニター」誌の言葉を借りれば、「自然は構成で、流行病が広がる時も、健康な赤ん坊が産まれる時も、あざやかに、そして無情に仕事をこなす」
>>自然なお産、という言葉の意味を考えさせられるテーマです。
代替医療業界は、主流の科学者たちを悪者にすることで新たな患者を獲得しようとする。
>>そうあってはならないと思います。実際IAYT(国際ヨガセラピスト協会)のシンポジウムへの参加者の多くが、西洋医学のM.D.の方々(つまり主流の科学者)です。現代医学の側とヨガ界の側がお互いに謙虚に学び合ってこそ、という姿勢を大事にしようとしています。ですから、ヨガの側にいる私たちも、もちろん限界はありますが、もっと現代医学、せめて解剖学のところまではきちんと学ぶ努力をしなくてはならないと思います。
抜本的に新しいアイデアを考えついた反主流派は、その考えが正しいことを世界に向かって証明しなければならない。代替医療の開拓者のほとんどは、そこでつまずいてしまうのだ。
>> ヨガを証明するために、諦めずに頑張りたいと思います。
代替医療セラピストの中には、治療法に信憑性を与えるために科学的な言葉を使って説明するものがいるが、なるほどと思える説明でもそれが事実だとは限らない。
>> そういうまやかしをしないよう、気をつけなくてはなりません。医学、解剖学の基礎をきちんと勉強しなくてはならないと思います。
「祈りは患者のためになるかどうか」自分のために祈ってくれる人がいれば、患者は愛と希望を感じ、困難な時期を支えてもらっていると感じるだろうから、回復率の高さは心理学効果として容易に説明できる。
>> 仮に家族に祈ってもらえなくとも「祈りは祈るものの心をも変える」という言葉もあります。自分で祈ることも心理的効果があるはずであり、それが代替医療を信じる人々のプラセボ効果と呼ばれるところなのではないか。しかしその心理的効果が実際に患者さんを元気にすれば、それは「心理的効果」として治癒力があるとは認められないのだろうか。体の病は治せなくとも、少なくとも心の病という側面には効くのではないか。
ワイルは、効果のある通常医療をしばしば中傷する一方で、効果がないさまざまな代替医療を試してみて、自分に合うものを見つけようなどとアドバイスする。患者が自分の体を実験台にして結論めいたものを引き出すようアドバイスするのではなく、注意深く安全に行われた臨床試験の結果をきちんと知らせてはどうだろう。
>> 急を要する致命的な病気にはそれが必要ですが、ヨガなど、患者の「全般的な健康改善に役立つ療法」については、自分に合うものを探すために試行錯誤する猶予は残されていいのではないかと思います。
新聞、ラジオ、テレビは、どんな論争においても絶大な影響力を持つが、メディアには読者、聴取者、視聴者を引きつけたいという願望があるため、話題をセンセーショナルにしなければという圧力がかかる。
>> ヨガのよさを普通に伝えるのも難しい世の中です。まるで魔法のように伝えられたり、大胆な効能が叫ばれたり、ダイエットや美容の側面ばかりが取り上げられたり。きれいになるヨガ、悟りを開くヨガ、ももちろんありですが、心と身体が普通に楽になるヨガ、というのが広まってほしいと思います。そのためにはあまりメディアでヨガがもてはやされすぎるのも、と思う一方、ではメディアなしでどうやって人々に伝えることができるのか、という矛盾に悩むことになります。実際、ブログやインターネットでヨガのことを発信するのも、メディアを使っていることになるからです。メディアによりヨガのよさを知ってもらい、実際にやってみる人が増え、そこからヨガの評判が徐々に伝わっていき、新たに始めてみようかな、という人が増えていくのだと思います。人気大爆発の一過性ではなく、まるでヨガのように、ゆっくりだけれども長く効く薬のように普及していってほしいものです。
今日はここまでしか読めませんでした。出発までに読み終えて出かけたいと思います。
(追加12/19)
マッサージが一部の筋骨格系の症状、特に腰痛や、不安、憂鬱、便秘に有効であることについては科学的な根拠が得られている。局所的な血流を増やし、脳のエンドルフィんを放出することによって効果が得られるのかもしれない。有害な影響が出ることはまずない。
瞑想の「リラックス反応」はストレス軽減のための治療としても用いられ、ストレスが軽減されれば、血圧を下げたり痛みを抑制したりするなど、健康上の効果がある。瞑想状態にある時は、様々な生理学的機能が変化する。たとえば、呼吸や心拍は遅くなり、脳の活動レベルも低くなる。ある種の瞑想(たとえば超越瞑想)には宗教的意味合いが大きく、より大きな信念体型や、実践体型の一部分を構成していることもあり、それに患者が抵抗を感じることもあるかもしれない。「マインドフルネス・メディテーション」は純粋に治療目的で発展した方法であり、宗教にかかわる問題は起こらない。
瞑想によって精神疾患が悪化する場合もあるらしく、そうした問題をもつ患者は瞑想を行ってはならない。
リラクセーション・セラピーは「リラックス反応」として知られるものを引き起こすことそれ自体を目的とする治療法だ。リラックス反応とは、心身を緊張緩和させるような自律神経系の反応パターンのことである。リラックス反応が起こると、脳の活動レベルが低下したり、心拍、血圧、筋肉の緊張など生理学的パラメータが変化したりする。
この療法を高く評価する人は多く、とくに、患者の健康を患者自身に管理させようとする点が評価されている。
多くの人が-治療を施す側も、治療を受ける側も含めて-代替医療に心ひかれるのには、それ以外にも理由がありそうだ。
ひとつには、主流の医療に対する不満があることだ。「冷たい主流の医療」に対して「温かい代替医療」といったイメージを抱く人は少なくないだろう。
医者が一人ひとりの患者に対して十分な精神的ケアを行うことはきわめて難しいと言わなければならない。一方、かかった時間に応じて費用を請求することも可能な代替医療ならば、施術者と患者がとが満足度の高い人間関係を結ぶ余裕もある。あ
プラセボ高価にのみ頼った医療を容認することは、医療全体を暗黒時代に引き戻すことだという点
「ナチュラル」「トラディショナル」「ホリスティック」これらはまさしく科学的医療のイメージの裏返しだ。(自然はそれほど人間に都合良くはできていない)これらのキーワードには私たちの思考を停止させる強力な魅力があるらしい。